島尾敏雄文学碑公園






2010年8月16日(月)撮影 瀬戸内町呑ノ浦(のみのうら)

島尾敏雄について
1917年(大正6年),横浜で出世。幼少の夏は父母の故郷・福島県相馬
郡でよく過ごした。43年(昭和18年)九州大学(東洋史専攻)を繰り上げ
卒業,海軍予備学生となり,翌年C艇特攻要員に任じられ,第18震洋隊
指揮官として呑之浦に基地を設営,出撃(死)を待った。この状況のなか
押角の大平ミホと結婚。伸三とマヤが生まれる。生涯引越しを続け旅のよ
うな人生であったが,55年(昭和30年)から75年(昭和50年)までの20
年間,名瀬に住んだ。凄絶なまでの愛の高みを祈り刻んだ『死の棘』など
の小説のほか,詩,随筆,対談,歴史家としての眼での文化論,ヤポネシ
ア論など出版されたものは多い。芸術院会員。第一回戦後文学賞,芸術
選奨,日本文学大賞,谷崎潤一郎賞,川端康成文学賞,野間文学賞,多
くの新聞社の賞など,著名な賞は殆ど受賞。
新しく切り拓かれる大きな仕事への期待は,86年(昭和61年)11月,鹿
児島市での突然の死によって絶たれた。今,福島県相馬郡に眠る。
   
建立趣旨
この地呑之浦が島尾敏雄と廻り会ったのは,昭和十九年十一月,島尾は,
第十八震洋隊隊員一八三名を率い,呑之浦の入江深く,基地設営のため
に上陸した。島尾は,震洋特攻隊長としていつ捨てるかも知れぬ命を背負
い,死への準備にいそしむ日々を生きていた。押角国民学校に勤める大平
ミホに出会ったのは,そんな戦争状態の中にあっても,時として訪れる平穏
な一日であった。島尾の特攻出撃とともに,二人の青春はこの地に散るは
ずであったが,敗戦により思いがけない生を得た。戦後,文学史上に残した
島尾の仕事は,ここでの体験を抜きにしてはけっして語ることができない。
三回忌を迎えたいま,島尾敏雄の業績をたたえ,それを記念するために,
ゆかりに地呑之浦に文学碑を建立する。
               一九八八年十二月四日
                       島尾敏雄文学碑建立実行委員会

島尾敏雄文学碑公園です。島尾さんは奄美図書館の初代館長でもありま
す。現在は県立奄美図書館が新設されました。そこに,島尾さんの特集が
あるので,是非一度見に行ってみてください。